筑波大学蹴球部を経て、大学院へ進学された後に「日本一のサッカー通訳」を志しオーストラリアへ1年間の留学を経験された酒井さん。

自身のYoutubeチャンネルやSNSを通して英語学習や留学に関する情報発信をしながらも、大学院を卒業後、目標であったJリーグのクラブで英語通訳を務められました。通訳を昨年末に退任後、今年初めて開催されたキングスリーグワールドカップに日本代表責任者として帯同されるなど、文字通り”異色のキャリア”を歩んでいます。

今回のインタビューでは、筑波大学蹴球部時代のお話をはじめ、サッカー通訳を志した経緯や留学での経験、そして将来の展望も余すことなく語っていただきました。

それでは「体育会×キャリア×海外」企画第6回スタートです!

酒井龍さんのプロフィール

酒井龍(さかい・りゅう)

1994年生まれ。茨城県出身。
筑波大学時代は蹴球部に所属。筑波大学大学院に進学した後、日本一のサッカー通訳になることを志し、在学中にオーストラリア、ビクトリア大学へ1年間の交換留学を経験。2021年より3年間、J1リーグの2クラブで英語通訳を務めた後、今年5月にメキシコで開催された、キングスリーグワールドカップの日本代表責任者を務める。Youtuberとしても活動しており、「りゅうの留学英語チャンネル」は2024年8月現在13万人超の登録者数を誇る。

・Youtube「りゅうの留学英語チャンネル」:http://www.youtube.com/@Ryustralia

・X:https://x.com/Ryu_Interpreter

・Instagram:https://www.instagram.com/ryu_interpreter

インタビューQ&A

筑波大学蹴球部に入るまでの経緯を教えてください。

サッカーを始めた経緯から説明すると、サッカーを始めたのは中学校に入学してからでした。

小学生のころは少年団に入っておらず、昼休みに友達とサッカーをする程度だったのですが、進学した中学校では部活動に入る必要があったため、「日本で競技人口も多くて人気がある」「かっこいい」という単純な理由でサッカー部に入りました。しかし、入部一日目で圧倒的な周りとの技術の差を感じ、絶望したことを今でも覚えています。サッカーを始めた年齢が遅かったため、小学校からサッカーを続けているチームメイトに追いつくべく必死に練習しましたが、結局中学校三年間は公式戦に出場することができませんでした。

周囲と比べて圧倒的な実力差があったこと、また周りから「お前下手くそだな」といじられ続けてきたこともあり、「このままやめられるか」という悔しい気持ちから、茨城県内でサッカー県大会常連校である茨城県立牛久栄進高校に進学しました。サッカー部に入部することを目的に入学している選手も多かったため、中学校に比べて周囲のレベルも高く、入学当初は5軍のベンチ外からのスタートでした。しかしその後、日頃の練習はもちろん、自主練習も毎日重ね、少しでも上達するために試行錯誤を続けた結果、年次が上がるごとにカテゴリーが上がっていきました。そして、高校最後の選手権大会県予選、僕は初めてスタメンを勝ち取ることができました。

しかしその試合、僕は前半15分で途中交代しました。前半早々に失点し、試合の流れを変えるためにと、真っ先に僕がベンチに下がりました。結果は、PK戦の末敗退。僕の高校サッカーが終わりました。試合の後、監督から「申し訳ない」と謝られたのを覚えています。その時、僕の中では喪失感と悔しさ、言葉では言い表せない沸々とした感情が込み上げ、「このサッカーで味わった悔しさを晴らすには、プロサッカー選手になるしかない」と決意しました。高校3年の10月、僕は人生で初めて夢を掲げました。

プロサッカー選手になるには、サッカーの強豪大学に入学する必要があると考えましたが、一般的にそのような大学はセレクションがあるので、自身の実力を考慮すると入部するのは難しいだろうと思っていました。しかし、調べてみると、当時関東大学サッカーリーグ1部に所属していた筑波大学はセレクションを必要とせずに入部することができる大学でした。「誰にでも下剋上できるチャンスがある」と思い、僕は迷うことなく筑波大学を目指すことにしました。

「筑波大学に行きます」と周囲に宣言したときは様々な人に反対されましたが、それらを押し切って勉強しました。しかし、高校三年間はサッカーだけに打ち込み、勉強という勉強を全くしていなかったため、センター試験の結果はE判定。案の定、現役で合格を勝ち取ることはできませんでした。それでも僕は浪人することを決断し、 再び筑波大学を目指して一年間勉強に励みました。僕が志望していた体育専門学群では、二次試験にて実技試験がありました。そのため浪人時代の一年間は、勉強だけではなく予備校に行く前後の時間を活用してランニングやサッカーも行い、体のコンディションを維持・向上させていきました。一年後、紆余曲折はありましたが最終的に、合格最低点+1点でギリギリ筑波大学に合格。そして目標であった蹴球部に入部することが出来ました。

筑波大学蹴球部での四年間を振り返ってみていかがでしょうか?

サッカーのことだけを考え、TOPチームを目指し、活躍し、いずれはJリーグでプロサッカー選手になることを目標にトレーニングを重ね続けた四年間でした。

同時に、誤解を恐れずに言えば、蹴球部での四年間は非常に苦しい時間でした。

もちろん苦しいばかりではなく、サッカーに関する知識や経験を得ることができたことや、多くの一流の方と同じ時間を過ごし、蹴球部の監督である小井土先生という尊敬する恩師にも出会うことができた素晴らしい時間でした。しかし、全国からトップレベルの選手が毎年入ってくる環境で、自分の実力不足を突きつけられながらもがき続けることは非常に苦しかったです。

(筑波大学蹴球部でプレーしている酒井さん。)

筑波大学蹴球部は全国でもトップレベルの選手が集まってくる組織なので、入学した当初、僕は6軍のベンチ外からスタートしました。

しかしその後、学年が上がるごとに少しずつ昇格し、大学4年次には2軍まで上がることができたのですが、2軍となると周囲のレベルも圧倒的に高く、最終的には3軍に落とされ、四年間の蹴球部生活に幕を閉じました。

今振り返ると、当時僕が持っていた「プロになるために」という想いは、蹴球部の卒業生で現在プロの舞台で戦っている同期や先輩後輩の「プロになるために」という想いとは圧倒的な差があったと感じています。

蹴球部で過ごした四年間、毎日の練習を全力で取り組み、チーム練習がない日もほぼ毎日グランドに赴いて自主練をしていました。練習量で言うとかなり多かったと思います。しかし、今振り返ると、それが果たして「プロになるために正しい努力だったのか」という疑問が残ります。努力の仕方をもっと工夫することができたと思いますし、そうすればよりレベルの高い舞台でプレーすることができたのではないかという後悔があります。

(筑波大学蹴球部時代の試合前のチーム集合写真。)

しかし、この「後悔」に関して深掘りをすると、「覚悟」の問題であったと感じています。
先ほども述べたように、大学時代はとにかく練習の量をこなすことを重要視し、工夫して努力することができていませんでした。「なぜ工夫できなかったのか」その問いを突き詰めると、当時の自分は本気でプロサッカー選手を目指す「覚悟」が圧倒的に足りていなかったからだと、今では思います。当時の自分に言葉をかけることができるとすれば、「プロになりたいと言っているけど、現状の取り組みでいいの?」と問いかけます。
なぜならプロサッカー選手になるためには、日々の練習をするだけでは不十分で、様々な角度からのアプローチが必要だからです。例えばJリーグを見に行き、より良いパフォーマンスを発揮するためには何が必要なのかを学ぶ、色んな人に会いに行きアドバイスをもらう、自分のプレーを客観的に分析する、自分の現状に真摯に向き合い、プロになるために伸ばすべき必要な能力を見極める…等。 このように、ただ練習量をこなす以上にやるべきことがたくさんあるにも関わらず、僕はそれに気づくことができませんでした。もちろん、それを全部やったからといってプロサッカー選手になれるわけではありません。プロサッカー選手とは、一握りの世界です。しかし、それができていない自分が、プロになれるはずがない、と今では思います。これが、僕が「プロサッカー選手になれなかった理由」だと感じています。

(スタンドからTOPチームの試合を応援する酒井さん。)

だからこそ、後に「サッカー通訳になる」と決めたときの覚悟は、人生で初めての本気の覚悟だったと思います。
筑波大学に行くという決断も僕の中では大きな決断でしたが、あくまで周囲が大学に行くという、ある種決められたレールの上での決断でした。しかし、サッカー通訳になるというのは、他の人とは違うレールの上を歩むということであり、 「怖いけどやるしかないんだ」という覚悟が決まったからこそ、実現するためにはどうすればいいのかと本気で考えました。
後ほど「サッカー通訳になる経緯」の部分で詳しくお話ししますが、サッカー通訳を目指すためには、言うまでもなく英語力を伸ばす必要がありました。当時は大学院生で、 卒業までの期間が1年と数か月しかない状況でした。その残された期間で通訳を務めることができるレベルまで英語力を引き上げる必要があり、そのために必要なことを考え抜き、本気で試行錯誤したからこそ、サッカー通訳のキャリアをスタートさせることができたと思っています。

蹴球部での経験を通して何を得ることができましたか

最も大きいと感じているのは、蹴球部で出会った現在プロサッカー選手として活躍されている方、サッカー界で活躍されている方、社会人として活躍されている方、そうした様々な一流の方々と関わることができたこと、そして「その方たちを超えたい」と心から思うことができたことです。

僕の二つ下の学年では現在日本代表の三苫薫選手が入部してきましたし、その他にも多くの同期や先輩、後輩がプロの舞台やその他のフィールドで活躍しています。しかし、僕は彼らの活躍に負けたくないと思っていますし、より大きなことを成し遂げる人間になりたいと思っています。蹴球部の四年間を通してそのような刺激を得ることができたことは、僕の人生に大きな影響を与えています。

また、「他者からの影響」という点で、現在モロッコリーグ初の日本人プロサッカー選手として奮闘している森下仁道は、僕に影響を与えてくれた人物です。

彼は蹴球部の後輩で、学年は一つ下だったのですが、ポジションが同じFWだったこともあり、ライバルとして一緒に練習したり、また仲間としてお互いの悩みを相談し合ったりするなど、今ではかけがえのない親友です。その当時は、彼が帰国子女だったこともあり、僕のことを海外からの留学生が集まる場所によく連れていってくれました。しかし当時の僕は英語を喋ることができないため、最初は「誘うのをやめてほしい」と言いながらも渋々ついて行っていました。

(筑波大学蹴球部での親友、森下仁道さんと。森下仁道さんの記事はこちら。

ただ今振り返ってみると、そのときに彼に連れられて(イヤイヤでしたが)海外の人と交流した経験が、海外に対する潜在的な興味関心を育んだと思っています。

大学の四年間では海外に行くことに全く関心はなかったのですが、プロサッカー選手になることができず、自分の人生に悩んだときに、「サッカー通訳」という職業をめざすきっかけの一つになりました。

また、蹴球部だけではなく、筑波大学では多くの出会いに恵まれました。僕が所属していた筑波大学体育専門学群には、全国から良い意味で”変な人”が集まっていると感じているのですが、ありがたいことに僕は、蹴球部のみならず、他の様々な部活の人との交流があり、とても仲良くさせてもらっていたので、それぞれの競技の考え方や様々な生き方に多くの刺激を受けることができました。ありきたりな回答かもしれませんが、多様な考え方や価値観を学ぶことができたことは、筑波大学で過ごした大きな財産です。

筑波大学大学院に進学した背景や当時の生活を教えていただいてもよろしいでしょうか?

一言で言えば、大学の四年間でプロサッカー選手になることが叶わなかったので、その期間を延長するためです。「サッカー選手としての挑戦期間を延長するための手段」として大学院に進学することに決めました。筑波大学という環境で学生が二年間延長されることで、もう一度様々なチームの練習に参加して、チャンスを掴もうと考えていました。

また、もう一つの理由としては、仮にプロサッカー選手になることができなかったときに、セカンドキャリアの観点から、大学院を卒業していることは今後のキャリアでプラスに働くと考えたためです。

大学院に進学してからのスケジュールは、授業や課題に加えて都内にある関東社会人サッカーリーグのチームに所属していたため、正直とてもハードなものでした。

朝7時から品川で練習があったのですが、当時の僕はつくば市に住んでいたため、朝4時に起床して、5時前のバスに乗り練習に向かう必要がありました。

また、練習が品川で朝9時に終了したら、またすぐに電車でつくばに戻り、午前10時半からの授業に出る、という生活を送っていました。つくばと東京を往復する交通費も稼ぐ必要があったので、チーム練習がない日は早起きの習慣を維持するために、朝5時から牛丼チェーン店で勤務。夜は深夜まで居酒屋でアルバイトをして、次の日は朝4時に起床して練習に行くというサイクルを繰り返していました。そのような生活でしたが、自分が選んだ道だったので、苦しいと思いながらも必死に踏ん張っていました。そして僕は、あるプロクラブのトライアウトに参加するチャンスをつかみます。トライアウトへいき、自分が持てる最大限の力を出し切りました。しかしその一週間後、クラブから1通の手紙が届き、そこに書かれていたのは「不合格」という3文字でした。今までであれば、「まだまだ」という気持ちで次のチャンスに向かって突き進んでいく自分がいましたが、今回は違いました。その3文字を見た瞬間に、自分の心の中でサッカーに対する糸が「プツンと切れた」のです。

「自分はプロサッカー選手にはなれない。」

人生で初めて大きな夢を失った瞬間でした。そしてそれと同時に、サッカーというスポーツが嫌いになってしまいました。それからはあまり覚えていませんが、日々を常に放心状態で過ごしていました。「サッカーがなくなった自分に何が残るのか」という自問自答を繰り返し、家に引き篭もるようになり、Jリーグでプロサッカー選手になった同期の姿や、海外に羽ばたいてプロのキャリアをスタートさせた仲間の活躍が見られなくなりました。親しい友人は僕がサッカーをしていることを知っているので定期的に連絡をくれるのですが、「最近サッカーどう ?」と聞かれることが辛く、友人とも会わなくなっていきました。

サッカー通訳を目指すことになった経緯を教えていただいてもよろしいでしょうか?

プロサッカー選手になる夢を失ってから半年ほど経った頃、たまたま友人に草サッカーの練習試合に誘われました。「今の所10人しかいない。お前にきてほしい」と言われましたが、当時の僕はサッカーが嫌いになってしまっていたので、最初はその誘いを断っていました。しかし、どうしてもと言うので僕は渋々参加することにしました。その練習試合で僕は「元サッカー通訳」の方にお会いすることになります。その方は、たまたま僕と同じように集められた中の一人で、その日は同じチームでプレーしていました。練習試合後、雑談をしている中でお仕事の話になり、「サッカー通訳」という職業を知りました。当時、通訳という仕事すら知らなかった僕は、興味本位でその方にお話を聞くと、「サッカー」と「言語」を使ってサッカーチームで働く仕事があるということ、そして通訳の難しさと奥深さ、そしてただ言語を介するだけではない、日本と海外を繋ぐ素敵な仕事なんだということを教えてくれました。その時に僕の中で、ビビッと雷が落ちたのです。先に述べたように、僕には英語に対する興味関心がありました。「サッカーと同じ熱量を持って取り組めるものってなんだろう」と考えていた時に、もしかすると英語かもしれないとうっすら考えている自分がいました。また、サッカーが嫌いになったとはいえ、「サッカーで悔しい思いをした分は、サッカーで返したい」「サッカー界に何か爪痕を残したい」という自分がまだいることにも気づいていました。そこで僕の中で「サッカー」と「言語」というものがバチンとつながり、次なる目標「サッカー通訳」を目指すことを決心しました。そしてそこで僕は、やるからには突き抜けないといけないと考え、ただサッカー通訳になるだけではなく、「日本一のサッカー通訳になる」という夢を掲げたのです。

【後編へ続く】

編集後記

体育会×キャリア×海外企画 第6回 酒井龍さん【前編】、いかがでしたか?今後取り上げてほしいテーマや聞いてほしい質問などありましたら、こちらのお問い合わせフォーム、またはinfo@sportglobal.jpにメールをお送りください。

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